かつて多くのライダーから支持を受け、のちに多大な影響を与えたアンダー400にスポットをあてる連載企画。19年もの長きにわたってビギナーからベテランまで幅広い層のライダーに愛されてきたセロー225。その誕生はトレールモデルの原点へ立ち還り、新たな価値観を呼び起こしたのである
木村圭吾:写真
山遊びを楽しむために生まれた、まさにマウンテントレール
85年から04年までの19年間という長い歳月の間、トレッキングモデルの代名詞として君臨したセロー225は、数度の進化をはたし大きく分けると5つの世代に分類できる。
まず85〜88年までが初期型である第1世代。この間でもキャブレターを負圧式に変更するなどしている。89〜93年までの第2世代では、従来のキック始動に加えてセルを装備し、12V6AhのMFバッテリーも採用。タンク容量も8.8Lとなり、車体重量増に合わせてサスペンションのセッティングも変更。93〜96年の第3世代では、リヤにディスクブレーキを搭載。サブタンク付きのリヤショックやヘッドライトも60W/55Wとなる。そして車名もセロー225Wとなった。
97〜99年の第4世代は、セロー225WEとなり、キャブレター径を3㎜小径化して、極低速域から中速域でのレスポンス向上を図る。タンク容量も10Lとなり、巡行距離をのばした。さらにトライアルマシンTY250Zと同じくリヤにチューブレスタイヤを採用し、小型MFバッテリーへの変更など実用性を高めている。00〜04年が223㏄最後である第5世代。排出ガス規制に対応すべく、エアインダクションシステムやTPS(スロットル・ポジション・センサー)を採用。また、放熱性にすぐれるメッキシリンダーにアルミ鍛造ピストンで耐久性の向上をねらっている。さらに時代の要求に応えるべく、02年にはストリート的な印象を与えるブラックリムモデルも登場する。
このような進化を続けながら、いつの時代も乗りやすさや扱いやすさに、操る楽しみをライダーに与え続けていったセロー225。現代のバイクシーンから見れば、そのコンセプトも理解できるが、誕生当時のシーンは高性能化が進み、どんどんマシンが先鋭化していった時代だ。だがセローは、そんな流れとは違った方向性を打ち出しながらも、多くのライダーたちに受け入れられることになる。言い換えれば見えない市場の要求でもあったのだ。セローの誕生後に親しみやすいトレッキングモデルが、他メーカーからも登場することになる。それにはもちろんセローの存在が大きいことは、まぎれもない事実であろう。
適度なパワーと扱いやすさに、二輪ニ足でときには押しながら、山奥深くへと冒険する。20年以上も前に、トレールモデルのある種の原点に立ち還ったのが、マウンテントレール、セローなのである。
マシンギャラリー
SEROW225が発売された1985年の出来事
- 両国国技館が完成し、大相撲が蔵前から両国へ移る
- ゴルバチョフ氏がソ連共産党書記長に就任
- つくば科学万博が開催
- 電電、専売公社が民営化。NTTとJTが誕生
- 豊田商事事件発生、永野会長刺殺される
- 日航ジャンボ機墜落事故発生、国内最悪の航空機事故といわれる
- ヒット曲 中村あゆみ『翼の折れたエンジェル』、おニャン子クラブ『セーラー服を脱がさないで』、尾崎豊『卒業』
- ヒット映画 『ビルマの竪琴』『アマデウス』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
- ベストセラー 国際科学技術博覧会協会編『科学万博つくば’85公式ガイドブック』、板東英二『プロ野球殺られても書かずにいられない』
- 流行語 「イッキ! イッキ!」「トラキチ」「私はコレで会社をやめました」
※本記事は『Under400』No.006(2007年10月8日発売)に掲載された当時の内容を再編しています